鼠径ヘルニアの手術を多く行っていると、前立腺癌術後の方に鼠径ヘルニアに多く発生しているのに気づきます。実は、前立腺癌の手術後には1割の方が鼠径ヘルニアを発症するといわれ、発生率の高いのです。その理由について、当院でのデータを参考に迫ってみたいと思います。
前立腺は男性だけに存在する臓器
前立腺は男性にだけある臓器で、骨盤の中、膀胱と直腸に挟まれるように存在しています。尿管を取り巻くように位置しており、正常の状態はクルミ大の大きさです。前立腺の役割は大きく分けて2つあります。一つは精巣で作られた精液の運動や受精に欠かせない栄養素となる前立腺液を分泌していること、もう一つは射精のタイミングで収縮して精液の射出を助けます。
精巣で作られた精子が精管を通って、精嚢と前立腺内部にある射精管に入り、尿道と合流します。前立腺はその通過の際に前立腺液を分泌して精子の運動や受精を助け、収縮することで膀胱から流れてくる尿を遮断して精子が射出されやすくしているのです。

前立腺は加齢により腫大していく
前立腺は加齢により腫大することが多いです。尿管を取り巻くように存在していることから、前立腺が腫大してくると尿道が圧迫されて、尿の排出に影響してきます。中高年の男性が、夜間に目が覚めて何度もトイレに行く症状は、この前立腺肥大に関係しています。圧迫された尿道のため、たまった尿が出しづらくなるのです。尿を出すためには膀胱に尿を溜めて圧力を高めるしかないのですが、尿を排出していくと、徐々にこの圧力が下がるため、圧迫された尿道を通過できなくなるのです。そのため、一回の排尿でちょろちょろと少量の尿しか出なかったり、完全に尿が出し切った感じがしない残尿感が残るのです。
前立腺は癌になる可能性もある
年とともに腫大してくる前立腺ですが、一定率で癌になる可能性もあります。前立腺から産生されるPSAという特異抗原は、前立腺の肥大・炎症・癌などになると産生が増加するため、前立腺癌の目安の一つとして血液検査に使われています。前立腺癌になった時の治療は、薬物療法・放射線療法・外科手術があり、癌の進行度や全身状態によって、治療方法が選択されます。必ず外科手術になるわけではありません。
しかし、前立腺癌の手術して全摘した場合、その後に行われる鼠径ヘルニアの手術、特に腹腔鏡手術では、手術操作をする部位が近いため、影響が強く出てくるのです。
前立腺癌術後の鼠径へルニアについて
前立腺癌の術後になぜ鼠径へルニアが発生しやすいのか
前立腺癌の術後のヘルニアは外鼠径ヘルニアが99%以上と言われています。2024年末までに当院で手術された前立腺全摘後の52名の患者さんのうち51名が外鼠径へルニアでした。1名に内鼠径へルニアの患者さんがいましたが、前立腺手術の前から存在していた鼠径へルニアでした。したがって、前立腺手術後に発生する鼠径へルニアは、100%(51名)が外鼠径へルニアだった訳です。
では、なぜ前立腺全摘後に外鼠径へルニアが発生しやすいのかというと、前立腺を全摘するには、精巣から前立腺につながる精管を切ってしまうことに関係があります。精巣は、精管と精巣動静脈という由来の違う2本の「綱」によって支えられて、陰嚢の中にぶら下がるように存在しています。2つの方向から支えられているため、内鼠径輪に力が加わっても腹膜が押し出されずに緊張を保てているわけです。しかし、前立腺全摘後は、精管が切られてしまい、1方向からの支えになるため、緊張が崩れて腹膜が押し出されやすくなるのです。もちろん、先天的に鞘状突起に沿った腹膜の引き込まれがあることが前提になるのですが、精管が切れてしまうことで、鼠径管内へ腹膜が侵入しやすくなってしまうのです。

前立腺癌の手術方法の変遷
前立腺癌の手術の方法は、2000年頃までは開腹手術がほとんどでした。一部の施設で前立腺全摘に先行してリンパ節郭清を腹腔鏡で行うことがありました。2000年を過ぎた頃から腹腔鏡手術が始まります。最初は小開腹を併用した腹腔鏡補助下手術から始まり、徐々に完全鏡視下へと進んでいきます。2010年ぐらいまで少しずつ腹腔鏡手術が増えていました。しかし腹腔鏡での尿管吻合の難易度が高いため、劇的に増えることはありませんでした。しかし、ここで革命が起こります。ロボット手術の登場です。ロボット手術は、人間の関節の可動域を上回る多関節鉗子を備えたことと、直感的な操作で、外科医の指先の動きを100%以上で再現できたのです。またロボット手術は直感的に操作ができるため、技術を習得するまでの時間が短いといわれています。そのため、前立腺癌手術の最大の難関である尿管吻合が、素早く正確にできるようになりました。前立腺癌に対するロボット手術が保険適応となったことで、ロボットの爆発的な普及が泌尿器科から始まったのです。

日本へルニア学会のガイドラインでは
日本ヘルニア学会の治療ガイドライン2024(第2版)では、前立腺全摘術後は、成人鼠径へルニア発症における危険因子の一つとして位置づけられています。第2版では、下腹部手術後の成人鼠径部へルニアに対して推奨される治療についての記載はなかったため、基本的には第1版の見解が踏襲されているのではないか、と考えております。2015年に発行された第1版では、次のように記載されています。
前立腺癌術後の腹腔鏡手術がなぜ難しいのか?
鼠径へルニアの腹腔鏡手術が、前立腺全摘後で難しい理由とは何でしょうか。
それは、前立腺の解剖学的な位置が影響しているのです。前立腺は膀胱の背側に位置します。前立腺を摘出するには、まず膀胱を剥離して裏側に入り、前立腺を露出させなければなりません。前立腺を摘出するためには膀胱を十分に剥離する必要があるのですが、この時に剥離するの腹膜前腔が鼠径へルニアのメッシュを敷く位置と一部が重なるのです。剥離を行った場所は、治るために癒着するのですが、癒着が発生することで、続いて行われるヘルニア手術が難しくなってしまうためです。癒着を剝がすため、通常より出血のリスクが高くなったり、剥離するために手術時間が長くなったりしてしまうからです。解剖学的には、下腹壁動静脈の内側に強い癒着が発生します。このため、内鼠径へルニアや大腿ヘルニアが発生しにくい状況になり、前立腺癌の術後はほとんど全てが外鼠径へルニアとなるわけです。
当院での治療方法は?
当院では、鼠径部へルニア診療ガイドライン2015(第1版)に沿って、前方アプローチでの手術を第一に推奨しています。希望者のみ腹腔鏡での手術を行っています。当院での腹腔鏡手術は、TEP法を第一選択にしており、前立腺全摘後の方でもTEP法を第一選択で行います。腹部手術歴のある方は、腹膜前腔(直筋後鞘のスペース)が確保できるかどうかで手術方針が決まります。手術開始時に腹膜前腔が確保できた場合は、そのままTEP法を行い、確保が困難な場合はTAPP/IPOM法での手術となります。2017年8月の開院から2024年12月末まで93名の前立腺全摘後の患者さんが来院されています。日帰り手術を希望された52名が当院で手術を行い、7名が前方アプローチ、45名が腹腔鏡手術を行っています。前立腺全摘後であっても、安全で痛みの少ない腹腔鏡手術を実施しております。
この記事を書いたのは…
2002年山梨医科大学卒業。2008年長野市民病院でTEP法をみて衝撃を受ける。以来、鼠径ヘルニアの理想的な治療はTEP法だと確信して手技の研鑽を積む。2017年8月の開院から全ての手術を執刀。「初診から術後経過まで、執刀した外科医が責任を持って診るべし」が信条。好きな言葉は『創意工夫』